日本の組織は暗に属人化を推進してシステム化を阻むからな。外資にいくと属人化しないように可能な限り徹底されている。
—  ID:IsbLk8du
日本には「経験を知識にして学ぶ」という仕組みがなく、「経験は経験として学ぶ」という方法しかありません。 そのため、学ぶのに時間がかかり、学び終えた時にはみんなシニアになっています。 「経験を知識として学ばせる」のは米国が得意な方法で、彼らは経験知を何でもマニュアル化して、学校で教え、 意識的に若い人を育てようとします。だから若い人の成長が早いのです。 一方、日本には「誰かが20年かけて学んだことを、システマティックに3年で学ばせる」という概念がありません。 さらに言えば、そういう概念が嫌いなようです。「経験を知識として短期間で学ぼうなんてずるい考え方だ」「時間をかけて、人生をかけて学ぶべきだ」と心の底で思っているのです。
— Chikirin

文化資本(1)

文化が資本であることを理解するためには次のようなことを想起すればよい。劇場やコンサートは入場料自体はほとんどの人々がアクセスできる範囲にある。にもかかわらず現実にこれらを享受するのは特定の人々に限られている。クラシック音楽や古典劇を理解可能にするコードがなければ楽しくないし、意味不明である。したがって文化財を理解可能にするコード所有者には富めるものがますます富むという文化資本の拡大が生じる。資本の拡大は貨幣や財産に限らない。しかもこのような文化資本は教育達成(学力、学歴)に有利なコードとなる。上層階級の家庭には「正統」文化が蓄積されているからである。正統文化とは高級で価値が高いと見なされる文化である。クラシック音楽や古典文学は正統文化であり、演歌や大衆小説は正統文化から距離がある。学校で教育されるのは文化一般ではなくこうした正統文化である。(竹内洋)

文化資本(2)

社会学者ブルデューらが1960年代にフランスの美術館に対して行った調査によると、観客全体に占める比率では、農業1%、生産労働者4%、商人・職人5%、事務職および中級管理職23%、上級管理職・専門職45%となっていました。全就業者の5%に満たない上級管理職・専門職が観客の4割以上を占め、就業人口の4割近くを占めるはずの生産労働者は美術館の観客全体の4%でしかなかったのです。

ブルデューは、現代美術のように高度に抽象化された絵画を「鑑賞できる」のは、生まれつきの先天的な才能によるよりも、どれくらい鑑賞に必要な知覚を自分のものとして集められるかという、後天的な要素によるところが大きいと考えました。そしてこの鑑賞に必要な知覚は、財産のように各階層それぞれにばらつきがあると考え、それを芸術資本と呼びました。象徴財としての芸術作品そのものは、それを解読しうる鑑賞眼、すなわち芸術資本が必要であると説いたわけです。

・・・上層階級の側については、ブルデューが「意識的に学ぶこと」なしに美的性向が獲得される傾向にあると指摘しています。実際、ブルデューらがインタビューしたパリの上層階級の少女は、両親から何の圧力を受けることもなく意図も努力も感じさせずに広汎な教養を示すことができました(下記参照)。

「美術館にはよく行きますか?」「あまり行きません。リセではあまり美術館には行かなくて、歴史博物館に行くことの方が多いですね。両親はどちらかというと劇を見に連れていってくれます。美術館にはあまり行きません」「好きな画家は?」「ヴォン・ゴッホ、ブラック、ピカソ、モネ、ゴーギャン、セザンヌなんか。でも、現物は見たことがありません。家で画集を見て知ったんです。ピアノは少しやります。それだけ。音楽を聴くのは大好きだけど、自分で弾くのはあんまりね。バッハ、モーツァルト、シューベルト、シューマンなんかはたくさんあります」「ご両親は読書を勧めますか?」「自分の読みたい本を読みます。家にはたくさん本があるから、読みたいと思った本をとるんです」(大学教授の娘、13歳、古典教育課程第4学級(日本の中学2年から3年に相当)) 

こうした態度形成は、第一に芸術作品への時間をかけた日常の慣れ親しみ、第二に親たちの非指示的ですが暗示に満ちた言葉や見方の取り込み、第三に知識としてよりも慣習的行動としてのそれらの内化(身体化)などが要因として挙げられると考えられます。

文化資本と経済資本

資本が生まれつき平等に備わっているわけではありません。経済資本の問題で言えば、お金持ちの家に生まれる人と、そうでない人があります。では、文化資本の場合はどうであるか、たとえば、職人の家庭に生まれた人は、その技術を多かれ少なかれ学び取って育つことになります。バイリンガルの家庭に生まれた 人は小さい時から外国語を話すことを覚えることができます。これを経済格差と同様に環境の不平等として捉えることもできるでしょう。

教育社会学の中で、しばしばこの文化資本が問題となることがあります。社会の中で、学歴が高いほど、職業選択の自由が多く、また、賃金や社会的威信が高い職業につく可能性が高いことになっているのですが、この学歴取得の決定因は日本では経済資本よりもむしろ学力にかかっていると考えられています。日本の国立大学の学費は私立よりも安く押さえられ、学力さえあれば家庭環境に関わらず入学できることから、経済的な格差というものが見えにくいからです。しかし、その学力が学校で誰でも平等に身につくものではなく、家庭環境の影響が大きく、学校ではただ選抜だけを行っているのではないか、という指摘があります。

これまでの統計的な事実として、学歴の高い親の子供ほど、学力が高い、また学歴が高くなる傾向があります。これは学歴が高ければ収入が高い傾向にあり、そのために進学校に子供をやったり、塾に行かせたりという教育投資が可能なのが一つの理由です。しかし、それと同時に家庭で伝達される文化資本の格差の影響も考慮しておく必要があります。経済格差は、社会のシステムを変えることである程度の是正は可能です。しかし、文化的格差を埋めることは簡単ではありません。このために、学力に基づく学校での選抜が、経済的、文化的な社会の不平等を正当化させる機能を持っているという一面も存在しています。

インセンティブ・ディバイド(意欲格差)

(1)上層の出身階層で育った子弟は、その家庭環境からして教育を受けることをはじめとして、仕事においても努力をする意欲を強く持つのに対して、低い階層の子弟ではそれが弱くならざるをえない。(2)学校外での学習時間は、低い階層の子弟ほど少ない。(3)「落第しない程度の成績でよい」と考えている比率は、低い階層の子弟ほど高い。

世間一般では、学校での勉強や仕事において努力をする意欲は、社会階層を問わず、人間みな平等にあるものだと考えられていると思いますが、現実はそう甘いものではないようです。

文化的再生産

親から子へと家庭で伝達される階層文化を媒介として、社会的不平等が再生産される。こうしたメカニズムは「文化的再生産」と呼ばれる。そして、学校は、この文化的再生産の中で、相続された階層文化 —フランスの社会学者、ブルデューのいう「文化資本」— を、学校での成功に変換し、それによって不平等を正当化する重要な機関と見なされている。

文字や数字などの記号を操る能力、丹念に論理を追う能力、ものごとを捉えるうえで具体から抽象へと飛躍する能力。これらの能力の獲得において、どのような家庭のどのような文化的環境のもとに育つのかが、子供達の間に差異をつくりだしていることは否定しがたい。そして、こうした能力の違いが学校での成功と失敗を左右するであろうことも容易に想像できる。

それでも、日本の場合には、学校で測られる学力は、特定の階層から「中立的」であると見なされている。しかも、生得的な能力の差異をなるべく否定し、「子供には誰でも無限の能力、無限の可能性がある」と見る能力=平等観が広まっている。頑張れば誰でも「100点」がとれるとする努力主義信仰も根強い。実際には学校を通じて不平等の再生産が行われていても、そのような事実にあえて目を向けないしくみが作動しているといえるのである。

不平等を再生産すると同時に、そうした事態を問題視する視線をさえぎる。不平等を正当化するうえで、もっとも有効な方法が、大衆教育社会成立のなかで編み出されているのである。(苅谷剛彦)

出来レース

学歴や資格、地位を得るには、試験など各種の選抜システムを経るだけに、本人は「自力で得た成果だ」と錯覚しがちですが、生まれつき手にしていた親の学歴、収入の差という「既得権」を元手につかんだ実績なのであれば、それは最初から公平な競争ではなかったのではないでしょうか。こういう競争を「出来レース」と呼びます。

自分は公平なレースを勝ち抜いてきたという誤解と奢りは、弱者の存在を見えなくします。そして、「貧しいのは自己責任」と勝者の論理を振りかざすようになります。リーダー層は、なぜいま自分がその地位にいるのか、自らに問い直す必要があるでしょう。

若いときは『雑巾がけ』で会社にご奉公し、年をとってから楽なマネジメントで取り返すという徒弟修業型のキャリアパスは、組織が永遠に不変で、自分がそこに定年まで終身雇用で勤務するという前提でのみ成り立つインセンティブ・システムである
— 池田信夫
リスクの有無を行動の基盤としてはならない。リスクは行動に対する制約にすぎない
— ドラッカー
事業においては、リスクを最小にすべく努めなければならない。だがリスクを避けることにとらわれるならば、結局は、最大にしてかつ最も不合理なリスク、すなわち無為のリスクを負うことになる
— ドラッカー

焼肉の生焼け理論

ひとりが生焼けの肉を食べると、他の人も次々に箸をのばす。しまいにみんな生焼けの肉を食べるが、みんな心の中では「おいしくない」と思っている。「結局、誰も満足しないが、ただ流されて、そうせざるを得なくなっている」。(石渡嶺司)

椅子取りゲーム(1)

いす取りゲームでいすをとれなかった人は「自分の努力が足りなかった。自業自得だ」と思うかもしれない。けれども、いすの数が人数より少ない限り、何をどうしたって誰かがいすからあぶれるのだ。仮にその人がうんと努力すれば、今度は他の誰かのいすがなくなってしまう。仮りに、すべての人が今の100倍努力したとしても、同じ人数がいすを取れないことでは全然変わりがない。要するに、問題は個人の努力ではなくて、いすの数の問題、つまり構造的な問題なのだ。